昭和50年01月09日 朝の御理解



 御理解 第10節
 「神が社に入っては、この世が闇になる。」

 私共が拝まして頂いておる神様は、そういう神様であります。ただ小さいお社の中だけに納まって御座ると言う神様ではない。言うならば天地に円満して御座る神様。満ち満ちて御座る神様。金光教で言う天地金の神様という神様は、そういう神様なのです。其処でそういう、偉大なそういう大きな神様を頂くと言う事は、どう言う事かと社の中に入っては、此の世が闇になると仰せられる神様ですけれども、氏子の心の中に宿って下さる。一人一人の心の中に宿って下さる。
 それが私は信心だと思うです。ね。社の中には入らないけれども、銘々の心の中に入って下さる。銘々の心の中に宿って下さる。それを私は目指し頂くのが、御道の信心だと思います。神様が心に宿って下さると、それこそ神様の姿を、此処では光りという感じがしますですね。この世が闇になると仰せられますから、闇の反対は光りです。ですから光りが自分の心の中に、言わば灯って来るのです。
 だから心が明るくなるです。ね。その心の灯火光りが大きくなれば大きくなるだけ、自分の心の隅々までも明るくなり。それが溢れてその周囲にまで、その光をもたらす事が出来るというのが、神様であり光りだと思います。信心をし拝ませて貰っておるから、神様が何時も宿っておって、まぁ下さるのかも知れませんけれども、宿って下さってあるという問題は、自覚なのです。そこでどう言う様な、私共が状態にならせて頂いたら、その神様が心に宿って下さるかと言う事です。
 昨日は青年会主催、信徒会此処の信徒会の後援で、恒例の新春パーティという銘打っての、催しが御座いました。昨日はもう大変盛大でしたが、私は昨日あの昨日感じた事は、もう新しいご信者ばっかりだった事でした。もう福引が沢山出来てましたけれども、あのあれでもうギリギリだったらしい。丁度おかげいただいとったらしいですけれど、沢山の福引の品物が、皆さんまぁ、寄贈して頂いておった訳で御座いましたが、その一枚一枚の、くじに御理解が出ております。
 殆ど私が説きます御理解から、その景品とまぁ難しかったけど、景品の一つ一つに御理解が付く訳ですから。私は信心は朝参りと言う事から。私の方の家内は、「福神を小部屋の内に祭りなば、家に宝の尽きる事なし。」もう、とにかく福神様を、何時も手元に置いとるから、大丈夫ですね。うちの家内の場合は、そう言う御理解付の福引を頂きました。もう一人一人本当に拍手喝采しなければおられない様な、銘々がぴったりしたその御理解を頂いて、ま。
 今年一年の信心のそれが信条ともなれば、焦点ともなれば素晴らしい事であろうとこう思いました。もう此れは椛目時代でしたけれど、あの福引会の時、壱岐の郷ノ浦教会の末永先生が、教会の長男に生まれておられながら、教師になると言う事は、断念して他の仕事で立つと言う風にしておられたのが、たまたま椛目にご縁があって見えられました。その時に丁度、桜井先生のお導きだったでしょうかね。桜井先生と、二人だけがね、座布団を引き当てられたんです。
 そして座らねばならぬと言う御理解付でした。その時にもう本当にもう豁然としてでしょうね心が開けたんです。やっぱりこう言う神ながらなね。働きの中に如何に私が御道の教師を志さなければならないかと言う事を、まぁ言うならば悟られたんです。その年から学院に入られたんです。そして今沢山の人が助かるおかげを頂かれたのですから、その問題は頂き方ですね。家の家内の場合なんかは愈々福神様を大事にしなければいけぬ。私は愈々朝の御祈念のあのひと時を愈々大切にしなければいけない。
 もうそれに尽きるのです私の信心は。始まる前に御祈念が御座いました。御祈念の後に、私皆さんに一口頂いた事を聞いて頂いたんですけれども。こう言う事を頂きました。「毛嫌いは、自分を墓場に埋めるのも同然」と言う事でした。毛嫌い、毛嫌いするというでしょう。私は此れを頂いてですね。本当にあの毛嫌いをすると言う事は、自分のおかげの世界を狭くすると言う風には、感じておりましたけれどもね。それが墓場になるとか、埋める様な物だとまでは、気が付かなかった。
 けどもよく良く考えておると、確かにそうです。ね。例えば真面目な信心をする方達なら、パーティが不真面目と言う事ではございませんけれども、まぁ若い者がやって、飲んだり食ったり、その福引どんする様な事では、信心じゃない様に思うた。例えば昨日そら勿論昨日は新しい方達が殆どでした様に感じましたけれども。総代幹部の方達は、皆出て来ておられましたが、そう言う帰来いがありますですね。所がそういう例えば、ほんならまぁ、浮いた気分もあるかも知れません。
 もうあの洋酒、カクテルやら、お酒やら、あの青年会の方達の心づくしではありますけれども、それに酒も魚も沢山昨日は出ておりました。それを頂きながら、あの青年会が演ずる所の、まぁそのま、歌やら踊りやらを見るだけの事で御座いますから、もうそげな事はと言う所もあろうけれども、信心させて頂いてそれが、事、教会での催し、事それが信心で、なされる場合はです。此れは逃されないと言う気が致しました。ね。そう言う例えばほんなら、昨日の福引一つでです。
 その人の人生が有難いほうへ展開する程しのおかげが、そこに待っておったかも知れんのですから。あの人は好きだ、この人は嫌いだと、毛嫌いをする。その嫌いな人の向こうに、宝くじがないとも限らんのですから。いや確かにそうです。良い物というのは、本当にです嫌なと言う所にあるもんです。こりゃもう私の永年の体験ですけれども、例えばあの、あの人は好きこの人は嫌いと言う様な。あの嫌いと言うならば、思う様な人の向こうに、必ずおかげがあると言う事です。
 例えていうならば、ここであの、古賀先生と言うあの胸の病気でね。本当喘息でああした小さい先生が修行しよりました。もう棒にも箸にも掛からんごたる、自動車にやっとかっと乗れる位な健康状態でしたし、お医者さんはもう一週間目に寝付きましたから、お医者さんに見て貰いましたら、大坪先生この病人は、早う帰しなさらなければ、ここにご迷惑が掛かりますよと、言うて帰られる程しでした。それでも私は受けると言うたら受けるという生き方ですから、毛嫌いをしないと云う行き方ですから。
 所がどうでしょうか。あの古賀先生が二年ほど修行しておる間に、熊本の方に道が開けたんです。なら竹内先生なんかは、古賀先生のお母さんのお導きだったんです。今熊本佐賀に、合楽のご信心が広がっておるのは、私は古賀先生をあん時にもし毛嫌いして、そらいかんと言うて断っとったら、開けてないかも知れません。と云う様に人がもう持て余す様な毛嫌いをする様なのを、私は頂くと言う所にです、信心がある様に思いましたですね。ですからもう嫌だと思う事は。
 取分け何事にも信心なりと、取分け信心にならせて貰うて、私はその事に云わば信心で勇気を持って、それに取り組ませて貰うと言う事でなからなければならない。そういう時にです。私は神様は宿って下さるのではなかろうかとこう思います。自分の物を好きな物を食べる時なんかは、大した事はない。ね。嫌いの物でも勿体ないと頂く時にです。私は神様が宿って下さるのだと思うのです。
 私は今朝、雪の進軍と云う事を頂きました、ご神前で。恐らくこういう朝の寒修行の事で、皆さんがそれこそ、雪のそれこそ進軍ラッパを聞きながら、ね。合楽へ合楽へと、まぁ進んで見えられる、そう云う姿だとこう思いました。ね。天理教の教祖が、お隠れになる時に、扉を開けそして、さぁさぁと言いながら、お社の中に入られたと言う事だそうですね。もう亡くなる、もうあの世においでられる時でも、そのとにかく、ね。さぁ入るぞと扉を開かせてさぁ入るぞ。
 さぁという勢いなんです。さぁ寒修行中ださぁ起きらなければ。今三人の子供達が朝出て来てくれます。今栄四郎が学院から帰って来てますから、三人でもう私が三時半に此処に出て来るとに、普通の時は待ってるんです私を。けども時間が来たらもう待たないぞと言うてあるから、もう皆んなが駆け足でやって来るです。もうバタバタバタと、もう勢いがね、本当に気持ちが良いんです。有難いと思います。
 光昭が朝の此処の御神前に向う時の、御用をしてくれます。若先生が朝の御祈念を、もう、一家を挙げてね、所謂さぁと言う信心をね。、特に寒修行中だから張り切ってる訳でしょうけれども、その張り切って、さぁと言うそういう私は勢い。それは雪の進軍と言う事は、まぁ冷たい、寒い、寒修行の意味だろうと思うんです。ね。それこそ前には進んでも、後ろには引かんと言うのは、もう進軍、また進軍あるのみ。
 後ろには何とはなしに、昨日の佐田の奥さんの福引じゃなかったけれども、天地のリズムに乗ってという、ま、素晴らしいですね。本当に日々が天地のリズムに乗っての生活である。信心であるという生き方。本当に進軍ラッパを、此処に聞く様な思いでね。例えば寒修行なら寒修行、合楽へ合楽へと向こうて来る。そう云う時にです。神様は宿って下さるのではないかと思います。ね。此の神様は、ね。成程社に入ったら、ね。此の世が闇になると言われる程しに、円満しておられる神様なんだ。
 満ち溢れて御座る神様なのです。けれども信心の無い人の心には、神様は宿って御座らんから、明るいとこがあるかと思うと、もうその後には真っ暗になっておる。ね。それこそ歌の文句じゃないけれども、義理がすたれば、此の世は闇だと云う様にね。例えば義理人情での、例えば明るさと言った様な物は、役に立つ明るさではないのです。神様が宿って下さって心が安定しておる。心が喜びに満ちておる。ね。そういうほんなら神様を頂くのですから唯ね。唯おかげを頂いた位な事では宿って下さらんです。
 昨日ある方がもう七十からに成られる。ですから奥さんは六十位になられると思います。ね。女の方ですけども、鼾がね大変かかれる訳です。もう周囲の者が迷惑する位に。もうしかし何十年連れ添うて来た、やっぱ家内でも、やっぱりその嫌なんです。それで最近合楽で、それこそ毎日奇跡が頂き現れるという話を聞いて、お願いに見えられました。そしてお願いをされた、その日から三十九度熱が出たそうです。医者に掛かったけども、何処から出る熱やら解らんち。
 そして一昨日昨日、一昨昨日から昨日に掛けて、スカッと熱が下がりましたが、もうおかげで全然、あの鼾をかかれんようになったそうです。ね。此れはあの久留米の井上さんの弟息子さん。たもるさんの子供さんですけれども、寝小便で大変困っておる。お願いをさせて頂いたら、もう本当にもうそれこそ忘れた様に寝小便が止まった。もう此の神様の働きに、もう恐れ入ってしもうてね。
 まぁそれから非常な信心に一つの熱意を燃やそうかとしておられます。けども僕はその燃やしだしたら止めどが無いごと、行かにゃ出来ん性分だからそのまぁね。もう本当に話を聞きよると、あの金光様の先生にでもなられる様なタイプです。やっぱりそういうその、あの奇跡というのがね。的におかげを受けてまぁ驚くばかり。だからそう言うおかげを頂いたからと言うてです。ほんなら心に光りが灯るとか、ね。心に神様が宿って下さると言うのじゃないのです。
 私共がその打ち向かうその姿勢、神様へ向う言うなら御理解十三節に、「神は向こう倍力の徳を授ける。」此れがまさに、神様が宿って下さるからなのです。神様へ向うその姿勢なんです。ね。だからそこにはどうでもその、それこそ雪の進軍と言う様な、一つの勢いと言う物が、ね。神様へ向かう時に、倍力の徳を授けられるのです。ね。如何にその、私共が信心させて貰う者の、工夫と言う物が大事かと言う事が解ります。桜井先生が四時の御祈念に、何時も出て見えます。
 だから寒修行の間は夫婦でね。親先生が三時半に出て天地を遥拝される。ね。あれにでも間に合う様に、おかげをいただこうじゃないかというて、三十分間さぁ、という気持ちを作られた。あの時計があの一分一分進んで行きますね外の。もう夫婦であれを眺めながら直ぐ走って来る。はぁまぁ一分その二分と言うのでね。もうその勢いを私は感じます。五時の御祈念を頂いておった方達が、せめて親先生の御祈念を半分でもと言う位名気持ちで、もう私が御神前に出る時には随分、今お参りがあっております。
 まぁ五時の御祈念には間に合わんけれども、ま御理解だけでも頂きたいと言っておった方達が、五時の御祈念には一分でも、切っちゃならんと言う様な弾みを付けてお参りになりますからもう五時には、既に此処に立錐の余地も無い位に、皆さんが座っておられる。ね。矢張り此れは修行です。そういう言わば神様へ向かう、生き生きとした信心の姿勢を、今日は神様は雪の進軍と言う風に、教えて下さったのだと思わせて頂きました。信心にはねそう言う一つの勢いを付けた物でなからなければいけません。ね。
 そしてそれこそ天理教の教祖じゃないですけれどもね。所謂さぁさぁと言うその勢いをね、神様へ向ける。そう言う時に私は、神様は心に宿って下さる。そう言う勢いに神様は宿って下さる。神様は確かに、社に入られる神様ではないけれども、人間の心の一人一人の心の中に宿りたいという、私は願いを持っておられるのが、神様の願いではなかろうかと思います。奥平野と言う所に、片島せんと言う女の先生ですけれども、大変御徳を受けられた先生がおられました。
 もう御神前に出られると、神様から一々お知らせを頂かれる。ある時に神様が世界中の氏子に話がして見たいと仰った。それが神様の思いなんです。一人一人の氏子に話がして見たい。お前の様にお徳を受けた者がおると、皆んなに此の様に話が出来るのだけれども、聞く耳を持たぬから、せんがないと仰ったそうです。ね。言うならば天地の親神様は人間氏子の一人一人の心の中に宿りたいと願われておるのです。ね。その神様が宿って下さった時に私の心は光りです、喜びで満ち溢れて来るのです。ね。
 一家の上に宿って下さる。私の行く所ある所に光りを放つ事が出来る。そう言う私は、信心を頂いて行きたい。神様の願いです社の中に入られる神様ではないけれども、心の中に宿って下さる神様であると言う事。此の御理解十節は大体は言うなら神感。ね。神をかく見るという此れは表現の御理解だと思います。金光教ではこう言う神様を拝んでるんだと言う訳です。けどもそういう神感と言う事だけではなくてです、ね。私共の心に宿って貰う神様と言う風に。今日は聞いて頂いたんですけれども。
 信心しておるから神様が宿って御座るというのではない。ご守護は下さってあります。ね。お守りは下さってあります。神様は忘れとっても寝とってもご守護はして下さってありますけれども、その中に宿って下さると言う事を、今日は聞いて頂きましたですね。どうぞ銘々の心の中に宿って貰う。それには私共の信心がそれこそ雪の進軍であり、さぁっと言う心に神様が打ち向かう、言わば倍力の徳を授けると仰る、ね。心の中に神様が宿って下さる。そういう蓄積こそがお徳だと思います。
   どうぞ。